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ノーフォーク(Norfolk)は、アメリカ合衆国バージニア州南東部に位置する都市。バージニア州法の規定により、いずれの郡にも属さない独立市となっている。人口は242,803人(2010年国勢調査)〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日.〕で、東に隣接するバージニアビーチに次ぐ州第2の都市である。ノーフォークを中心に、バージニアビーチやニューポートニューズと共に形成している都市圏は1,676,822人、ノースカロライナ州内の2つの小都市圏を加えた広域都市圏は1,779,243人(いずれも2010年国勢調査)〔の人口を抱えている。ノーフォークはこの都市圏における経済、交通、および文化の中心となっている。ジェームズ川がチェサピーク湾に注ぐ河口に形成されている湾、ハンプトン・ローズの対岸のニューポートニューズやハンプトンとは、橋と海底トンネルで結ばれている。 ノーフォークはチェサピーク湾の湾口という立地条件に加え、ハンプトン・ローズという天然の良港に恵まれていることから、港湾都市、また軍事都市として発展してきた歴史を持っている。ノーフォークは世界最大の海軍基地で、アメリカ統合戦力軍、アメリカ艦隊総軍、アメリカ海兵隊総軍、統合戦力軍特殊作戦軍団、および北大西洋条約機構(NATO)の変革連合軍が司令部を置くノーフォーク海軍基地を抱えている。ノーフォークやニューポートニューズ、エリザベス川対岸のポーツマスでは、軍需産業、特に軍艦を建造する造船業が発展している。また、ノーフォークの港湾は軍のみならず民間においても重要度が高く、特にコンテナ貨物の取扱量においてはアメリカ合衆国大西洋岸有数である。加えて、ノーフォークはクルーズの拠点としても、乗船客・クルーズ船会社の両方から高い評価を得ている。 ==歴史== ===初期から独立戦争まで=== 1619年、バージニア植民地総督ジョージ・ヤードレーは、植民地の中でも開発の進んだ場所に、植民地議会下院の基となる「シティ」(''Cittie'')という名の法人を4つ創設した。後にノーフォーク市となったこの地はエリザベスシティ法人の領域に含まれた。1634年、チャールズ1世がバージニア植民地の行政区画を再編し、8つのシャイアを導入すると、エリザベスシティはエリザベスシティシャイアになった。 1622年にイングランド・ノーフォークカウンティのキングスリンから年季奉公人としてバージニアに入植したアダム・サラグッドは、契約期間が切れて自由の身になると、まだ歴史の浅いこの植民地のリーダー的な市民となった。1636年には、サラグッドは105人にこの植民地に入植するように説得し、リンヘイブン川沿いの広範囲にわたる土地を与えられた。同年、エリザベスシティシャイアのうち、ハンプトン・ローズの南側、サウス・ハンプトン・ローズと呼ばれる地域が郡に分割されることになると、サラグッドは生まれ故郷のノーフォークカウンティにちなんで、この郡をニューノーフォーク郡と名付けた。翌1637年、ニューノーフォーク郡はサラグッドの勧めで、アッパーノーフォーク郡とロウアーノーフォーク郡に分割された〔Tucker, George Holbert. "Norfolk Highlights 1584 - 1881". Chapter 4: The Origins of Norfolk's Name . Norfolk Historical Society. 1972年.〕。 17世紀後半に入ると、「ハーフムーン」の砦が建設され、また10,000ポンド(約4,500kg)のタバコと引き換えに50エーカー(約202,000m²)の土地を得て、ノーフォークは成長した〔Tucker, Chapter 6: The "Half Moone" Fort .〕。1680年、植民地議会は、今日のノーフォークの基となるロウアー・ノーフォーク・カウンティ町を創設した〔Tucker, Chapter 7: The Birth of "Norfolk Towne" . なお、ノーフォーク市章には町の創設は1682年と記されているが、これは誤りである。〕。1691年、ロウアー・ノーフォーク郡はノーフォーク郡(現在のノーフォーク、チェサピーク、およびポーツマスの一部)およびプリンセス・アン郡(現在のバージニアビーチ)に分割された。1736年には、ジョージ2世の勅令により、ノーフォークは正式な町(ボロウ)として法人化された〔Tucker, Chapter 9: Norfolk Becomes a Borough .〕。 1775年頃には、ノーフォークはバージニア植民地で最も発展した都市であった。当時のノーフォークは、イギリスやその先に物品を輸出するための重要な港であった。商人たちの取引は大英帝国とつながり合っていたため、独立戦争の開戦間もない頃のノーフォークではロイヤリストが強い勢力を持っていた。当時のバージニア植民地総督であったダンモア伯爵は、植民地の首都ウィリアムズバーグからノーフォークに逃げ延び、体制の立て直しを図った。ダンモアはノーフォークで小さな勝利を収めたものの、やがてウィリアム・ウッドフォード大佐率いるパトリオットに追い詰められ、植民地から追い出された。ダンモアの追放によって、バージニアにおける168年におよぶイギリスの支配は終わった〔Cultural & Political Chronology (1750-1783) . ''History''. The Colonial Williamsburg Foundation.〕。 1776年の元旦、軍艦3隻からなるダンモアの艦隊は、8時間以上にわたってノーフォークの街を爆撃した。爆撃に加え、イギリス軍が火を放ち、その火をパトリオットが広げたことで、ノーフォークの街の約2/3、800棟以上の建物が破壊された。同年2月には、戦略的理由からパトリオットが残った建物を破壊した〔Guy, Louis L. Jr. Norfolk's Worst Nightmare . ''Courier''. 2001年春. Qtd by Norfolk Historical Society.〕。後には聖パウロ監督教会の壁のみが残った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ノーフォーク (バージニア州)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Norfolk, Virginia 」があります。 スポンサード リンク
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